ある性質を要求する発言と発言者の性質との関係について

発言内容が変わると逆の例も出てくることを横目で睨みつつ、
結論として行き着く所は同じ。

はてブついでに覚え書き。 – 合理的でない身体

もちろん、人間が論理的であらねばならない理由は特にないから、
矛盾だらけで、全然いいのだけれど、、、、

でもさ。他人に合理性を、論理を強要しようとする人の場合は、
自らの不合理も正した方がいいよね。説得力的には。

合理性や論理を求める場合はまったくそのとおりで、
論理的に喋れ」と非論理的に言われても
それに従う気にはなれない。
それに対して
そうでない人」が「そうあるべし」と言うことで
逆に説得力が増す場合もあるような気がする。
まっとうに生きろよ。
 道を踏み外すんじゃねえぞ

という言葉を誰に言われたら一番説得力があるかって、
そりゃあ実際に道を踏み外した人に決まっている。
要するに結論は同じで、

結局、正しいことなんて誰にでも言えて、
重要なのは、
誰が、いつ、どこで、どうやって、言うかなんだから。

ということになるのだろう。
極道を歩む人が、
私が道を踏み外しそうになっているときに、
居酒屋のカウンターで、
お猪口を片手に遠くを見ながら、
言うと強烈だ。
今のところ踏み外してない…つもり。

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2 Responses to “ある性質を要求する発言と発言者の性質との関係について”

  • 2006/10/23 08:56

    発言には、その人の人生の軌跡が垣間見えるときがありますよね。
    最近読んだ本より。
    」<対話>とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何事かを語ること(中島義道「<対話>のない社会」PHP新書、1997)まあ、この本の内容は割りと過激ですが(‘‘;)
    私の居るブログで、私が議論ふっかけられたり(事情により、そちらは消しました)、親友(!)が議論してたりしているので、こういうの、気になりまして・・・・(‘‘;)
    余談ですが。私、親友のブログから、広島のブログに来ています♪
    ですが、広島県福山市には縁がありまして。勝手ながら、親近感を抱いております♪
    失礼な言動、お許しくださいませm(…)m

  • 2006/10/24 17:54

    > マナさん
    いえ、失礼な言動はみあたりませんが。
    どうぞまたいらしてください。