何を言ってるかわからないと思いますが、生まれてはじめて「セミの幼虫に説教をする」という経験をしました。
前進
セミの幼虫が歩いているのを見つけました。ブロックタイルの歩道をゆっくりと、本当にゆっくりと前進している。
そこは街のど真ん中にある人通りの多い歩道で、進行方向の後ろは車道。いったいどこから来たのかわかりませんけど、ともかく必死で歩いてます。
わかって進んでいるのかそれとも偶然なのか、その歩みの先は二本だけ背の高い木の生えた植え込み。そこまでたどり着き、木に登ることができれば晴れて羽化できるかもしれません。
剣呑
しかし行き交う人の多くは足元なんて見ていない。このままでは踏まれてしまいます。
せめて近くで観察をしていればその危険は避けられるのではないかと思い、またこのあとどうなるのだろうという好奇心もあって、しばらく様子を見ることにしました。
困難
やっとのことで植え込みまでたどり着きました。ところが次の困難が待ち受けています。
ブロックタイルの歩道の先は、さらにタイルの壁になっていた。
この植え込みは歩道から数十センチ高くなっています。地面から一段上がったところに土が盛られて灌木と喬木が植え込まれている格好です。地面から曲線的に角度がついてやがては垂直の壁になる、例えるならば城壁の石垣のような形状。
人間にとっては腰掛け程度の高さでも、体の小さな、もしかしたら旅の果てに弱り切っているかもしれないセミの幼虫にとってはなかなかのハードルです。
転落
とはいえあの鎌のような前足でならしっかりと壁面を掴んで登れるのだろう、と思って見ていると、途中で足を踏み外して落ちてしまいました。
ひっくり返って仰向けになってしまったので、なかなか起き上がることができません。
それでも何とか体勢を立て直し、再度の登頂に挑みます。ところが間もなく転落。今度も同じ格好で落ちてしまいました。
どうも安定して登ることができないようです。セミの前足は石の壁を掴むようにはできていないのかもしれない。
絶望
挑戦と失敗が三度目になったとき、セミの態度に異変が起きます。これまでのように起き上がろうとしたものの、途中でその動きを止めてしまいました。
仰向けになったその小さな体から「嗚呼、もう無理だ」という言葉が聞こえてきたような気がします。
これが絶望か。
叱咤
そのとき、生まれて初めてセミの幼虫に説教をしました。
「おい、ここで諦めるんか。今日のこの日のために、土の中で何年も頑張ってきたんじゃないんか。」
さすがに声には出さなかったけど、心の中でそう伝えました。うっかり発声しなくてよかった。
セミの幼虫は孵化すると土に潜り、数年を地下で過ごします。そしてやってきた夏の日の夕方に這い出し、樹上に登ったのち捕食者のいない夜を待ってから羽化します。
このチャンスを逃せば、もはや成虫として高らかに歌うことはできません。メスだったらどっちにしても歌わないんだけどここはオスだったことにしておこう。
介入
ここで力尽きるならそれが命運か、という気もします。自然界の厳しい掟に介入するものではない、そんなふうにも思いました。
とはいえ、ここに石の壁を築いたのは他ならぬ我々です。土の上にブロックタイルを敷き詰めたのも、草木が生えていたはずのこの一帯をコンクリートジャングルに変えたのも我々です。
せめてその部分だけは補ってもいいのではないか、そう思って手を出すことにしました。
そんなことより、このままずっと見守り続けるわけにもいかないし、かといって放置して帰ったらあまりに後味がわるい。今晩気持ちよく眠りたかったから、というのが本音です。
登頂
仰向けになったセミの体をつまみ上げ、そのまま目的地であろう木の幹につかまらせました。
状況を把握したのか、すぐに上へ向かって進んでいきます。今度はしっかりとした力強い足取りで。
さすがは木の幹で生まれて木の根元で育ち、木の上で暮らす生き物。樹皮を掴むのはお手のものです。そのまま歩みを止めることなく枝の茂ったところまで登ってゆきました。
これ以上できることは何もない。少し安心してその場を立ち去り、家路につきました。
飛翔
うまくいっていれば今ごろは夏空を飛び回り、鳴き声を立てる練習をしているころでしょう。
恩返しには来てくれなくていいです。